当神社は「勢貴大明神(せきだいみょうじん)」と申し上げる三柱の女神様を主祭神としてお祀りしております。
創建の由来は、永正9年(1512年)の落雷により社殿、縁起等古文書も焼失した為明らかではありません。
宝永7年(1710年)に別当東福寺盛覚が記した『縁起』(当社蔵)によると、当神社御祭神は延喜式神名帳武蔵国足立郡4座の内の「多気比売命(たけひめのみこと)」であると伝えております。
文政13年(1830年)に完成した『新編武蔵風土記稿』によると、祭神は「多気津姫命」としており、長い歴史を経て「多気比売」が「多気津姫」、「多岐都比売」へ。また、「女神」、「水徳の神」という共通項から現在の御祭神に変遷していったことが推察されます。
また、『縁起』には永正9年の雷火によって縁起、証文等を焼失した為、京都の吉田家を訪ね、神祇管領長上従二位侍従卜部朝臣兼敬より正一位勢貴大明神の宗源宣旨、宗源祝詞(共に当社蔵)を頂戴した旨が記載されており、これを機にそれまで堰社・関社(せきしゃ)と称していた当神社名を勢貴社(せきしゃ)と改めたとされております。
当神社は古代入間川(現荒川)の自然堤防上に水難守護の為に奉斎され、低地にあった当地域を洪水よりお護り頂いたとされています。大神様は荒振る河川を鎮め、洪水を塞ぎ止めた御神徳から厄災難・障害を塞ぎ(防ぎ)止め、心願を成就させる「塞神(さいじん、ふせぎがみ)」と称えられて参りました。「ふせぎ」とは一般的に「禦(ふせ)ぎ」「防(ふせ)ぎ」と表しますが、当神社では「厄災難を塞いで、防ぐ」御神徳より「塞(ふさ)ぎ」を「ふせぎ」とお読みしております。
その他の伝承に「文蔵村(現さいたま市南区文蔵)の氏神社(十祖神)が洪水の度に流されて前川の不利(きか)ずの堰に漂着。二度は文蔵村に返したが、三度目はよほど前川に留まりたいのであろうと拝察し、勢貴社(現前川神社)内に奉斎した。はじめ、氏神社(十祖神)は別殿であったが、社殿の老朽化により宝暦の頃(1751~64年)勢貴社本殿に合祀した。」とあります。洪水時、前川の堰に漂着したお社の光景が、神様自ら堰の一部となって洪水を塞ぎ止めようとするお姿に見え、「塞」の信仰を更に篤くしたとされております。
※道祖神等の「塞神(さえのかみ)」とは由来の異なる別の神様です。
※当神社は氷川神社ではありません。
当神社に残る「神社日記」(年不詳)には、「かつて文蔵村(現さいたま市南区文蔵)では十度神と十祖神を鎮守として祀り、氏子も村を二分していた。その後、洪水で十度神は文蔵村から芝村の氷室大明神の麓に流れ着き、老農が同社の末社として祀り、文蔵村の半分はその氏子となった。一方十祖神は、文蔵村から前川不利の堰に流れ着いたのを里民が勢貴の境内に祀り、同村の半分が勢貴大明神を鎮守とするようになった。」とある。
文蔵村の氏神社を合わせてお祀りしていた当神社と文蔵の氏子付き合いは、昭和20年代まで続いていたようである。
身舎の全面に向拝を付した板葺きの流造一間社。「見世棚造り」とも称する。
大正14年まで使用されていた本殿が永正9年(1512年)の落雷焼失後に建てられた貴重な建物であることが判明。直ちに川口市指定文化財に指定された。
川口市内最古の建造物とされている。
当神社の随神として勢貴大明神を御護りしている。
獅子様は毎年4月20日の「塞祭(ふせぎまつり)」に使用され、氏子区域を巡行し魔を祓い、各戸の厄災難を祓う神事が戦前まで続いていた。
「塞」の象徴として御神札等に刷られている。
祖霊社前に鎮まる狛犬。
享保5年(1721年)頃の奉納。非常に珍しい表情の狛犬として注目を浴びている。
勝海舟より奉納された直筆の大幟。(縦8m横98㎝)
勝海舟は西洋兵式を教授していた関係で、川口の鋳物師に鉄砲を発注。この事が縁で明治8年に当社に幟を奉納した。幟は和紙に墨書され「勢貴大神宮」と揮毫されている。
現在は、例祭(10月17日)と八坂神社神幸祭(7月海の日)に複製の大幟を掲揚している。